パールセンター商店街と、その街路の歴史

    おそらく荒れ野と湿地ばかりであったろう上古の阿佐ヶ谷に、いつのころからからか、ささやかな街道が整備されました。
 現在パールセンター商店街となっているこの道は、鎌倉と北関東地域を結ぶ「鎌倉街道」の一部としておよそ800年前に現れたようです。
 関東平野は江戸時代に大規模な開墾がなされましたが、
 それ以前は広大な湿地帯が広がる中に集落が点在するような過疎地で、農業生産の中心地域は現在の群馬県、栃木県、埼玉県北部、千葉県北部にまたがる北関東にありました。
 そういった北関東地域と政治の都、鎌倉を結ぶ道路網が鎌倉時代に整備されています。

 それよりも前は記録が無いので良くは分かりませんが、松ノ木に古代の住居群があったことや、大和武尊が東北遠征の帰路に神明宮付近に立ち寄ったことからも現在の阿佐ヶ谷一帯は、古代の頃から人が居住するには向いた地域ではあったようです。 
   
    南北朝の頃には「あさかや」殿という江戸氏の流れをくむ土豪が文献に現れ、この時期にはこの一帯がすでに「あさがや」と呼ばれていたことが分かります。
 中世の周辺一帯は現在の石神井公園を本拠地(発祥は現在の北区)とする豊島氏と、現在の東京駅周辺に城を構えていた江戸氏が勢力争いを繰り広げていました。
  荻窪の旧家に豊島氏の支配下にあった記録が残ることから、阿佐ヶ谷は両者の勢力が拮抗する最前線であったのかもしれません。
 その後長く江戸氏と豊島氏の勢力争いは続きますが、江戸氏の支配を受け継いだ太田道灌と、豊島泰経・泰明兄弟が1477年に現在中野区の江古田・沼袋で激突します。合戦は激しい戦いとなりますが、足軽(歩兵)戦術に優れた道灌が数で勝る豊島勢を圧倒し、石神井城に追い詰められた豊島一族は滅亡。阿佐ヶ谷を含む一帯は太田道灌による支配が確立されます。
 しかし続く戦乱と北条氏(小田原を本拠地とし北条早雲を祖とする)の進出により阿佐谷一族は歴史の渦の中に飲み込まれ、1540年代に記録された「阿佐谷二郎」の名を最後に歴史の舞台から消えてゆきます。
 その後、北条氏が滅亡して徳川家康が江戸に入府したため、阿佐ヶ谷一帯も「阿佐ヶ谷村」として幕末まで徳川氏の支配下に入ることとなります。
   
     江戸幕府の成立と豊臣氏の敗亡により戦乱の時代も終わり、現在のパールセンターにあたるこの道は、練馬の貫井弁天から堀の内の妙法寺へ通じる「参詣の道」として親しまれるようになります。
 パールセンターの中ほどに残る青面金剛像と地蔵菩薩像はその頃の名残で、記録によるとおよそ300年前の元禄年間(1688〜1704年)に建立されたそうです。
  江戸時代の阿佐ヶ谷村は農村として、特筆されることもなく平穏に発展していきますが、唯一の出来事として善福寺川から桃園川に用水路を掘削したことが記録に残っています。
 それまでの荒れ地を開墾して新田として開発を進めた結果桃園川の用水が不足し、それを補うために善福寺川から用水路を掘削したようです。現在の荻窪団地付近から溝を掘り杉並高校前を通って、そこからパールセンターのサブドーム付近までトンネルを掘って水を通すという中々の大事業でした。
 サブドーム周辺には現在も暗渠が残りますが、もしかするとこの用水路事業に由来するものかもしれません。
(杉並郷土史会著:杉並区の歴史 第83ページの略図による)
   
     明治新政府により阿佐ヶ谷村は新設の杉並村に統合されることとなります。東京府豊多摩郡杉並村の阿佐ヶ谷となったこの地区を大きく変えたのが大正11年の阿佐ヶ谷駅開業でした。
 開業当初は駅から青梅街道まで民家が数件ある程度(!)でしたが、同じ年に発生した関東大震災により住処を失った人々が続々と移住してきたこともあり阿佐ヶ谷に住む人々も急激に増えていきます。
 それに伴い道の左右に商店も立ち並ぶようになり現在の商店街の原形が形作られました。
 青梅街道に路面電車が走り始め、杉並村が杉並町になったのもこの頃です。
   
     昭和になると2年に井伏鱒二が荻窪に移住したのを始まりに、鱒二を相談相手と慕った太宰治をはじめとする若い作家や、評論家といった文筆家が阿佐ヶ谷から荻窪にかけて多く移り住むようになりました。
 界隈には与謝野晶子、太宰治、青柳瑞穂、伊馬春部、三好達治、火野葦平、徳川夢声といった錚々たる顔ぶれが住んでいたそうです。
   彼らが顔を合わせる際にお決まりにしていた店(ピノチオ)が阿佐ヶ谷駅の北口駅前にあったこともあって、いつしか阿佐ヶ谷は「文士村」と呼ばれるようになりました。
 昭和7年には杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町と合わせて杉並区が発足します。
 そういった新興住宅地としての発展もあってこの商店街は、戦前には商店の数が120件を超える区内有数の商店街となっていました。


昭和初期の商店街
 
とある履物店の開店
 
昭和12年 提灯行列
 
昭和15年頃 祭礼の山車
 しかし太平洋戦争の激化により商店の多くも閉店を余儀なくされて商店街は衰退します。
 昭和20年3月には商店街の西側の約半分が疎開を命じられ退去してしまいました。
 疎開したベルト状の地域は更地同然となり、そのまま終戦を迎えたそうです。
   
    終戦直後は闇市同然の混沌とした商業地になっていましたが商店もじきに復活し、次第に元の商店街の賑わいを取り戻していきました。
 数年後には地元有志たちの運動により、更地となった疎開地を利用して道路が整備されました。これが現在の「中杉通り」に当たります。
  それに合わせて「商店街を歩行者専用道に」との要望が盛り上がり、昭和29年、商店街が歩行者専用道路に指定され”歩行者天国”都内第1号の栄誉に輝きました。また中杉通りには地元有志により欅が植樹され、今日の「けやき並木」の礎となりました。

終戦直後の様子

昭和28年頃の商店街

 昭和28年の「花まつり」行列
 
昭和28年 ケヤキ並木を植樹
 昭和29年には「街の核となるお祭りを」ということで仙台や平塚の七夕まつりを意識した「阿佐谷七夕まつり」が始まり、これは東京7大祭りの一つとして現在にも受け継がれています。先行していた仙台、平塚のクス玉や吹流しによる飾りを真似ていたものの、第1回目よりハリボテのような造形物を吊り上げる志向が見受けられ、その後はクス玉と吹流しに、手作り感あふれる個性的な造形物を組み合わせる阿佐谷独自のスタイルを確立して現在に至っています。

昭和29年第1回の様子 
 
昭和30年 第2回の様子
 
昭和32年 第4回の様子
 
昭和35年頃の様子
   
     こうして街の賑わいも盛んになってきますと、(この商店街に愛称を公募しよう)ということになりました。
当選商品がルノーの小型乗用車(!)ということもあってか、多数の応募が寄せられました。
そして応募の中から、(真珠の首飾りのように結び合って繁栄していこう)というわけで、「パールセンター」が選ばれました。
   昭和37年の年の瀬にはアーケード(先代)が完成し、都内有数の屋根つき商店街になりました。
 地下鉄丸の内線が開通したり、阿佐ヶ谷住宅が出来るなどして、都心への通勤に便利なベットタウンとして脚光をあびることになりました。
 時代は空前の高度成長期、経済発展の波に乗りながら住む人もどんどん増えていき、パールセンターも買い回りに便利な商店街として、ますます賑わってゆきます。
 昭和42年には路面をカラータイルで舗装して、現在のパールセンターに通じる近代的な商店街になりました。


昭和30年代 商店街青年部? 
 
昭和49年
 
昭和49年
 
昭和50年代
   
    その後、阪神淡路大震災の教訓から(防災機能に優れたアーケードに改築しよう)ということになり、平成11年には現在の2代目アーケードが完成しました。
 白とピンクを基調にした独特のデザインもさることながら、火災に備えて屋根が電動で開くようになっているなど、火事災害への工夫も施されています。
  また、これを機会に(新たなスタイルのお祭りを)ということで、平成13年にジャズ&ハロウィンフェスタが始まり、阿佐谷ジャズストリートと同時期に開催される仮装コンテストは、異色のミックスカルチャーイベントとして定着しつつあります。

最近の七夕まつり 
 
最近の七夕まつり
 
最近の七夕まつり
 
最近の七夕まつり
 
ハロウィン

阿佐谷ジャズストリート

阿佐谷スウィングウォーク

The 笑店街 クリスマスショー

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